Your browser does not currently have the Flash Player version 8 that is required to view this site.
Please click here to download the latest Flash Player version.
HOME / MOTORSPORTS / ADVAN FAN / Vol.103 News Index
  ひとつ前にもどる  
 
 
今では国内最高峰のSUPER GTなどで活躍を見せる折目遼選手。
ここからは“レーシングドライバー・折目遼”が誕生するまでの経緯についてお聞きしてみた。

「モータースポーツの世界にはレーシングカートから入っています。
元々は父がバイクのトライアル競技をやっていて、国際級のところまでステップアップしたのですが、怪我をしてプロへの道を断念したんです。でも、競技をやめてからもF1をはじめとしたモータースポーツ観戦は好きで、僕も一緒に見ていました。
そんな家庭だったので、おのずと自分もモータースポーツには興味を持っていましたね」

モータースポーツが子供の頃から身近な存在だったという折目選手。どんな少年時代を過ごしていたのだろうか。

「やっぱり自転車で近所を走り回るのは好きでしたし、マウンテンバイクを買ってもらった時には自分でジャンプ台を作って走らせてみたりもしました。
でも、スーパーカーやF1などのブームに影響された世代ではないので、レーシングドライバーを見て『あの人が格好良いからレーサーになりたい』といったことはあまり無かったですね」

まずは自転車に夢中になったという折目選手。年齢を重ねるごとに“速さ”を追求する気持ちが大きくなっていったようだ。

「自転車で色々とやっているうちに、もっとパワーが欲しいと思うようになりました。でも、なんというか父と一緒の道には進みたくなくて、4輪のモータースポーツ、その中でもF1ドライバーになりたいなって思うようになりました。
その第一歩としてはカートだろうということで、中学生の時にカートの雑誌を買ってきて『これをやってみたい』と父に言ったんです。一所懸命に父を説得して、結果的にやらせてもらえるようになったのは高校に入学してからでした。
理解はあったんですが、まずは勉強をしっかりやりなさいということで、父が望んでいた高校に合格したらOKだよ、と。だから中学生の間はサッカー部に入りつつ、カートに乗れる日にむけてトレーニングを続けていました。そして、晴れて高校に合格してカートを買ってもらえたんです」

周りは中学生や小学生からカートに乗っているという選手が多い中で、やや遅いデビューとなった折目選手。
しかし16歳でデビューして、翌年には琵琶湖選手権でシリーズチャンピオンを獲得した。これはまさしく天性の才能が開花したということなのではないか。

「いや〜、まぁ天才だったんでしょうね(笑)。
でも、本当に16歳でデビューするまで、カートには全く乗ったことが無かった。だから逆に、始めてからはたくさん練習していました。
天才だったというのは冗談ですが、感性というのは持ち合わせていたかもしれません。練習も実際に走ったのはもちろん、中学生の頃から世界選手権やいろいろなカートレースのビデオを、それこそテープが擦り切れるくらいまで見ていました。それもただ見るのではなくスロー再生や逆再生もしてコーナーの攻め方なんかを研究して。こうした積み重ねは、実際に乗るようになって色々な場面で活きてきていますね」
 
 
1998年にカートを始め、前述のように翌年には琵琶湖選手権でシリーズチャンピオンを獲得した折目選手。
その後は2000年に鈴鹿サーキットレーシングスクールフォーミュラ(SRS-F)に入校し、'01年にはスカラシップを受けてフォーミュラ・ドリームに参戦して4輪レースデビューを果たした。
ここからはフォーミュラ・トヨタや全日本F3選手権、フォーミュラ・ニッポンと、フォーミュラレースでステップアップを重ねていった。そして2007年、RE雨宮からSUPER GTへの参戦を実現した。

「SUPER GTに参戦したきっかけは、御殿場の“とある板金屋さん”なんです。モータースポーツ関係者が多く集まるところだったのですが、僕もそのうちの一人でした。
F3を走っている時に、山路慎一選手をそこの社長さんから紹介してもらったんです。最初は当然、山路さんは僕のことを知らないし、こいつは速いのか遅いのかも判らないという感じだったでしょう、ご挨拶させてもらったという感じでした。
その後、フォーミュラ・ニッポンを降りることになった時、その板金屋さんで『シートが無いんですよ』という話をしているときに、再び山路さんを紹介していいただいて、山路さんから雨宮さん(雨宮勇美・RE雨宮代表)に『こいつをオーディションに参加させてくれないか』って声をかけていただいたんです」

オーディションで見せた走りが見事に雨宮さんの眼鏡に叶い、2007年からSUPER GTのシートを獲得した折目選手。
フォーミュラから乗り換えたGTには、どのような印象を抱いたのだろうか。

「やはり重たいし、フォーミュラに比べたらダウンフォースも少ないし、まぁ全く違うと言えば違うんですけれど。
ただ、今のGT300マシンはしっかりとレーシングマシンとして作り込まれています。だからそれまでのフォーミュラに対しては応用編というか、少し考えて乗る必要もありましたが、そんなに困るようなこともなくちゃんと乗れました。
マシン以外の部分では、2人のドライバーで走らせる競技は初めてで、さらにGT500もいるSUPER GTのように混走という環境にも慣れる必要がありました。
でも、ツーリングカーでもフォーミュラでも、同じ“4輪”を扱うという意味では、さほど抵抗感は無かったですね」
 
 
RE雨宮のRX-7でSUPER GTに参戦するようになって2年目の2008年。
鈴鹿サーキットで行われた開幕戦のGT300クラスは、スタートからADVAN勢同士の激しいバトルが演じられていた。ポールポジションからスタートした紫電、これを追ったのがRE雨宮のRX-7。ファーストスティントを終えて両者のマッチレースとなった展開は、セカンドスティントを担当した折目選手が見事に相手の隙を見逃さず逆転に成功。そのままじわじわと引き離し、嬉しいウィニングチェッカーを受けることとなった。
これがSUPER GTでの折目選手の初優勝。この優勝は折目選手のレース人生において大きな節目となった。

「そうですね、本当に大きな節目になった優勝でした。僕は国内の4輪レースで表彰台に登ったのは、あのSUPER GTでの優勝が初めてだったんです。
それまで、F3の時にはなかなか結果が出なくて、自分が遅いのかなと思っていたこともありました。2005年のことでしたが、そんな感じでF3を戦っていたのですが、フォーミュラ・ルノーに参戦する機会があって、そこでは勝てたので自信を取り戻して。
ところがまた、なかなか結果が出なくて『頑張ろう、頑張ろう』としていたときにGTで優勝できたんです。だから、本当に特別な一勝になりましたね」

2007年と2008年は井入宏之選手とのコンビで戦い、開幕戦で優勝を飾った'08年にはシリーズランキングで前年の20位から大きくジャンプアップして7位を獲得。
その後、2009年と2010年のパートナーは谷口信輝選手。シリーズチャンピオン争いの一角を占める強豪チームの一員として、折目選手の存在感もますます高まっていくことになる。
 
 
2009年4月19日、鈴鹿サーキット。
この年のシリーズ第2戦として開催されたSUPER GTは、鈴鹿サーキットのリニューアル工事が終了しての“こけら落とし”という位置づけのレースでもあった。2輪レースも同時に開催される“2&4レース大会”としての話題性も高く、改修・新築された施設も含めて、“新しさ”がひとつのキーワードとなった大会である。

ここで谷口信輝選手/折目遼選手組は、その後のSUPER GTの戦いに大きな影響を与える“新しい作戦”を敢行して、見事に優勝を飾った。
その作戦こそが「タイヤ無交換作戦」。通常であれば決勝中のドライバー交代時に合わせて行われるタイヤ交換をせずに、スタートからフィニッシュまでを1セット・4本のタイヤだけで走りきってしまう作戦。これによりピットでの停車時間を短縮することは出来るが、当然タイヤを労る走りが必要になるし、タイヤそのものにも高い完成度が求められる。

「すっかりRE雨宮ではセオリーになったタイヤ無交換作戦ですが、あれは谷口選手の発想力から生まれたものなんです。って、実際にその作戦を遂行しているのは僕なんですけれど(笑)。
『無交換でいけないか?』という話が出てからは、チームの中では『無理だろうからやめておこう』という声は無くて、どうやって実行しようかと、とにかくやるためのことをみんなで考えていましたね。どうしようか、やめておこうか、というのではなくで、やろう!、やれるんだ!という感じで。あとは、どうタイヤを労って温存しながら、一方で攻めていこうかということを考えていきました」

この作戦を実行するにあたり、ドライバーにはどのような走りが求められたのだろうか。

「それはやっぱり、我慢なんですよ。最初から最後までドライバーとしてはプッシュしていきたいけれど、ファーストスティントを走る谷口選手にしたら我慢をしてもらわないといけなかったし、バトンを僕が受けてからもタイヤに対して攻撃的な走りは出来ないし。でも当たり前ですが、レースなんだからラップを落とすことは出来ない。なんというか、普通のレースには無い我慢がありましたね。
走っている間はタイヤと対話しながら、『ここは行けますか?それとも行けませんか?』っていう感じで。そうこうしているうちにGT500のマシンは後ろから来るし、ラインを大きく外してタイヤカスを踏んだりしたくもないし。タイヤに対してはいつも以上に気をつかって走りましたね」

ドライバーには、いつもとは違う走りも求められたタイヤ無交換作戦。ではマシンの方は何か対策をしていたのだろうか。

「いや、タイヤ無交換をやるためのセットアップ変更っていうのは、ほとんど無かったですね。
もちろんドライバーもチームも頑張りましたが、この作戦が成功したのはタイヤのお蔭。だって、実際に最後までしっかりもったんですから。それだけ素晴らしいタイヤがあるんだ、っていう認識が僕たちの中にあったからこそ出来た作戦ですよ」
 
 
このタイヤ無交換作戦を実現しての優勝は、SUPER GTに参戦する全てのチームはもちろん、ファンやメディアにも大きな衝撃を与えた。コンスタントに速いラップを刻みつつ、タイヤは最後までその性能を発揮し続けたのだから。
各チームもこの作戦を採るようになったが、RE雨宮は先駆者としてタイヤ無交換がセオリーになっていった。

「僕たちは燃費の面で他のマシンより辛い部分があるので、苦肉の策としてやっているんだ!だから真似しないでよ、っていうところはありましたけれど(笑)。逆に他のチームもなかなか上手く行かない面もあったようで、RX-7はタイヤに優しいんだな、ということを改めて認識したりもしました。
一度成功させたことで、やってはいけない走り方なんかも自分の中に叩き込めましたし、次のレースからは楽になりましたね。もっともコースや路面状態はサーキットによって異なるので、毎回ハラハラしていた面もありますが」

残念ながらRE雨宮は2011年のSUPER GTには参戦しないこととなった。多くのファンに親しまれたチームでの4年間を、折目選手は次のように振り返る。

「アマさん(雨宮勇美代表)っていうカリスマを中心にまわっているチームですが、みんな本当にレースが好きで、真剣にレースに勝ちに行っていました。
僕の中では特に谷口選手と組んだ2年間が大きかったな、というのが印象的です。モチベーションの高いチームに、更にモチベーションの高い谷口選手が加わって、そこで僕もドライバーとして吸収出来るものがたくさんありました」

2011年のSUPER GTでは、新たなチームへと移籍した折目選手。パートナーだった谷口信輝選手とはライバルという関係で、シリーズに臨むこととなった。


【>> 第4回につづく】
[UPDATE : 25.Mar.2011]
             
ひとつ前にもどる