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HOME / MOTORSPORTS / ADVAN FAN / Vol.117 News Index
  ひとつ前にもどる  
牟田周平選手 川名賢選手 Aki HATANO選手 新井選手&奴田原選手
2011年の全日本ラリー選手権では、二人の若手ドライバーがヨコハマタイヤを装着して存在感を見せた。
一人はJN2クラスにオレンジ色の初代ヴィッツを駆って参戦した川名賢選手。随所で光る速さを見せ、上位陣からもマークされるまでに頭角を現した。そしてもう一人はAki Hatano選手。海外ラリーで経験を積み、全日本選手権に初参戦を果たしたのである。
実はこの両選手、全日本参戦以前からの友人同士であり、Hatano選手がドライバー、川名選手はコ・ドライバーとしてコンビを組んで海外ラリーに出場したこともある。つまり、全日本選手権ではクラスこそ違えど、良き友人であると同時に、良きライバル同士なのである。
 
1984年6月、埼玉県生まれの川名賢選手。
当たり前のように運転免許を取得した後は、友人がスポーツカーに乗っていることもありドライビングの楽しさに惹かれていく。

「僕自身が負けず嫌いなので、運転技術でも友達なんかに負けたくないって思ったんでしょうね。だから、走っているうちにもっと運転を究めたいと思うようになって、20歳くらいのころから競技指向が強くなりました」

スポーツとしてのドライビングに目覚めた川名選手は、鈴鹿サーキットのレーシングスクールに入校。しかし資金面の問題もあって夢半ばでスクールを離れ、友人のアドバイスもあってラリーの道へと進んだ。

全日本選手権3年目の2012年だが、ひとつの転機は2010年の新城ラリーにあったという。

「ヘルプサービスで大庭先生(大庭誠介氏)と出会ったのが、2010年の新城なんですよ。プライベーターの活動を支えてくれるヘルプサービスがあるということを雑誌で知って、大庭先生に電話をしたんです。そうしたら先生が『目標があるのなら、頑張ってやってみなさい』と仰って、それで参戦する予定の無かった2010年の残り2戦に出場して。
そして、車も良くしてシリーズをしっかり追っかけようという話になって出場したのが、去年(2011年)の一年間なんです」

こうして2011年、全日本フル参戦を果たした川名選手。走るごとに速さを磨き、注目を集めていったことで楽しい一年になったのではないだろうか。

「いや〜、どちらかというと苦しかったですね。もちろんラリーを走ることで楽しいのですが、今思えば辛いことの方が多かったですね。
何が辛かったかって、去年(2011年)はひとつも勝てませんでしたから。SS(スペシャルステージ)のベストタイムは出しているのに、最後の方で結果的にリタイアしてしまったり、終わってみれば2位だったり3位だったり。優勝を目指しているのに、そこになかなか届かないのは辛いですよね。
ましてや、車も良くなって、参戦体制も充実して、皆さんに協力していただいている中で勝てないというのが、シーズン後半になるに従ってどんどん辛くなりました」

スポーツである以上、勝利を目指して誰もが走っている。しかし、当然だが栄冠はただ1台のクルーしか手中におさめることは叶わない。2012年、全日本選手権参戦3年目にあたり、川名選手はひとつの決断を下す。
「それまで一緒に戦っていたコ・ドライバーが乗れなくなったという事情もあったのですが、2012年はベテランの安東貞敏選手にコ・ドライバーをお願いしました。
2011年は僕とコ・ドライバーがともに全日本の経験値が同じだったので、やはり精神的にも技術的にも若いクルーだったんです。
速い選手の皆さんは、必ずといって良いほどベテランのコ・ドライバーと組んでスキルアップしていますよね。今も若い選手は牟田周平選手にしても大桃大意選手にしても、キャリアのあるコ・ドライバーと組んで経験値を上げています。
だから、自分もそういう環境を作らなければならないと思って、安東さんには一年以上前から連絡を取ったりしていました」

自らが望む体制を固め、2012年は飛躍の年にしたいという思いが言葉の端々から伝わってくる川名選手。しかし、開幕戦の唐津では安東選手から厳しい言葉が飛び続けた。

「初日の段階で、それはもう"けちょんけちょん"で(笑)。たとえば横から『荷重移動しろ!』と言われるんですが、自分としてはやっているつもりなので、『どうしろというんだ!?』という感じだったり。『リアをもっと使え!』って、僕はリアをちゃんと使って走っているつもりだし……。
ペースノートについても、『細かすぎるから大雑把にしろ』と言われて、要するにもっと簡単に要点を絞った解りやすい内容にまとめろということなのですが、最初に言われたときは『そんなノートでは、走れないでしょ!』と言い返してみたり。そうしたら、『それはノートに頼りすぎているんだ!』と言い返されて、もうこれは言われた通りに全部やるしかないな、と(笑)。だって、僕はノート作りにはちょっと自信があったのですが、それを見た安東さんの第一声が『なんだ、この出来の悪いノートは?』ですからね。以前には雑誌の取材でもノート作りには自信があるって言ったのに、それも全否定ですから」

ベテランであるコ・ドライバーの叱咤激励を受け、それを素直に受け入れた川名選手が、そのアドバイスがすべて正しいことに気づくまでには、それほど時間を要さなかった。川名選手曰く、一日に1回か2回は褒めてくれる、それが嬉しくて頑張ったと語ったが、良い意味で安東選手の掌に乗って唐津のステージを果敢に攻略。
その結果は昨年のクラスチャンピオンを下し、堂々のクラス2位フィニッシュという好成績につながった。

「今回の開幕戦では、ライバルの存在は気にならなくなりました。僕はこれまで、ライバルを気にしすぎていたように思ったんです。それが無くなったことで肩の荷が下りたというか、楽な気持ちで走れるようになりました。
これは僕自身が冷静に考えたことですが、僕はあくまでもプライベーターとしての参戦。ヘルプサービスという協力は得ていますが、お金も自分持ちだし、商売としてラリーが位置づけられているわけでもありません。だから、そもそものバックボーンが違うライバルについて、僕はひたすらに運転技術だけを見て比較していたんです。でも、ラリーはドライバーだけが戦っているわけではなくて、やはり参戦体制も大きな要素です。
だから、肩に力を入れて『絶対に勝つんだ、勝てて当たり前だ』と躍起になるのではなくて、『これ、勝てたら凄くない?』という感じで戦ったんですよ。すると、相手のタイムがどうこうはあまり気にならなくて、とにかく自分の求めている理想の走りが出来たら楽しくて、それがタイムにもつながっていたんです。楽しい時間がステージで長ければ長いほど、速いタイムが出たんですね」

ベテランとのコンビ、まだ僅かに一戦であるが川名選手が得たものは大きい。競り合って獲得した2位、これは間違いなく初優勝への大きな一歩になると見て良いだろう。
そんな川名選手に、最後にこれからの目標や夢を聞いてみた。

「夢ですか、それはWRC(FIA世界ラリー選手権)でのワークス入りですね(笑)。
まずは国内でしっかりチャンピオンを獲得Yして頂点に立ち、その後は海外ラリーに参戦したいですね。最終的にはプロフェッショナルのドライバーになること、そして頂点を目指していくことが目標です!」
 
畑野賢明(はたの・まさあき)選手。1984年10月生まれで川名選手とは同い年である。そして、ライセンスネームは「Aki Hatano」となり、もちろん全日本選手権にもこの名前でエントリーしている。この名前が、Hatano選手のラリー歴と将来のビジョンを物語っていると言えるのだが、まずは子供の頃の話からお聞きしてみよう。

「ありがちですが、車が好きで運転が好きで。実家が中古車販売をメインとした自動車屋さんなので、車は小さいころから身近な存在でした。そして自分が中学生の頃に6歳上の兄が免許を取って車に乗るようになったんです。これがとにかく羨ましくて、僕も早く車を運転したいの一心で18歳までを過ごしましたね」

18歳で免許を取ったHatano選手は、中古車で初代のユーノス・ロードスターを購入。愛車を手にしてからは、夜な夜などこかへ走りにいく日々が続いたという。そして大学に進学すると自動車部に入部。ここでモータースポーツが身近なものとなるが、意外にも興味はそれほど無かったという。

「子供の頃からモータースポーツには興味が全然無かったんです。ただ車を運転したいという思いだけで、免許が無いからテレビゲームこそやっていましたが、競技にはそんなに関心も無かったんです。
ただ、実際に車を運転出来るようになってあちこち走っているうちに、イコールコンディションで他人と腕を競い合ってみたいと思うようになった。どうしても特定のコースや場所は慣れた人が速くなるし、車の差も規則が無いから“お金をかけた者勝ち”みたいになってしまうし。
そんな時に規則がある競技の中で、やるんだったら何が良いだろうと考えたときに、ラリーというカテゴリーにたどりついたんです」

ここでHatano選手とラリーを結びつけたのは、モータージャーナリストの国沢光宏氏だった。国沢氏のご子息がHatano選手の後輩として大学の自動車部に入り、そこからの縁で2004年のAPRC(FIAアジア・パシフィック・ラリー選手権)に国沢氏が参戦する大会へと同行する機会を得たのである。
初めてラリーを目の当たりにしたHatano選手は、その迫力やトップドライバーの技量に魅了され、早速帰国後に自らが参戦するための相談を国沢氏にすることになる。そこで国沢氏からは費用の面なども考慮して、タイの国内選手権への参戦を勧められる。

「当時は全日本選手権がSSラリーへと完全に切り替わる前のタイミングだったこともあり、やはり世界を視野に戦った方がベターだろうという話になったんです。だから僕自身はデビューが2006年のタイ国内選手権ですから、計算ラリーというのは一度もやったことがありません。
この年は4戦に出て3戦完走。2007年になってSTI(スバル・テクニカ・インターナショナル)の方に目をかけていただいて、5戦中4戦に出場。そして2008年と2009年は中国ラリー選手権に移ったのですが、この2年間は周りとの順位争いも熾烈で、中段グループではありましたが競り合いへの臨み方とか、攻めることへの意識というのが身につきましたね」

中国で収穫を掴んだHatano選手だったが、2010年は満足出来る体制を構築できなかったこともあって、参戦をあえて休止した。そして2011年、APRCのアジアカップを狙いつつ、開幕戦から日本ラウンドまでの長いインターバルを活用して、全日本選手権への参戦も果たした。

「初めて全日本に出て思ったのは、ペース配分の違いですね。海外だとステージが長いので自分なりの配分が大切なのですが、全日本は先行逃げきりというスタイルなのかな、と。
福島と洞爺に出場しましたが、ワダチの使い方も難しかったですね。あんなに深いワダチが出てくるとは思わなかったので、運転技術に加えてセットアップなどの知識も高いレベルで必要になりますよね」

海外ラリーとは異なる、全日本戦ならではの難しさも実感したというHatano選手。2012年はスバルWRX STI・spec Cを駆って、第2戦の久万高原から参戦する運びとなる。

「本当は開幕から行きたかったのですが、ちょっと準備期間がタイトになってしまって。
今年は最終的に何番手になれるのかはわかりませんが、瞬発的にはステージタイムの上位に食い込みたいですね。僕はまだ運転に“ムラ”があるので、全然完成された形になっていません。その中で前半戦では技量を磨きつつも、最終結果で6番手とか7番手でしっかりフィニッシュして、後半戦ではもうちょっと順位をあげて最終的には表彰台の一角に届くくらいまで行けたら良いな、と思っています」

最後にHatano選手にも、これからの夢や目標を聞いて締めくくろう。

「目指すのは、完全なプロフェッショナル・ドライバー。趣味だけでラリーをやるのだとしたら、それは今年が最後かなと思っています。
今年はマシンもスタッフも、もちろんコ・ドライバーも最高に充実していて、これが全日本に出る集大成とも言える体制になっています。こういう大きな力がひとつになるのはそう簡単ではありませんから、きちんとタイムを出せなかったら、もう辞めた方が良いのかもしれないと思っているんですよ。
僕にとってラリーは趣味としてやるものではなく、プロ意識を持ってやり続けていきたい存在なんです」


次のページでは、新井敏弘選手と奴田原文雄選手からのメッセージをご紹介します!
[UPDATE : 20.Apr.2012]
           
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