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ヨコハマタイヤとシビック
2013年をもって、ひとつのレースカテゴリーがその歴史に区切りをつけた。
ワンメイクレースの祖として、30年以上の歴史を刻んできたシビック・ワンメイクレース。歴代シビックがサーキットを所狭しと駆け回り、多くのドライバーが腕を磨き、そして遺憾なくそれを披露して競い合う。そこからはシビック・マイスターと呼ばれる選手や、さらに上位カテゴリーへとステップアップする者も少なくなかった。
日本のモータースポーツ史に燦然と輝く歩みを続けてきたシビック・ワンメイクレース。ヨコハマタイヤもその走りを支えた歴史を振り返ってみよう。
今でこそ珍しくなくなったワンメイクレースながら、その礎となったのがシビックレースだ。スタートは1981年で、以来ホンダは長くワンメイクレースを開催し続けている。

ワンメイクレースの特徴は、文字どおり単一車種によって争われることで、改造を極力抑えてコストアップを防ぐとともに、イコールコンディションを保っているのが、基本概念である。ただし、シビックレースの成功を受けて、次々とワンメイクレースが誕生したことから、後にスタイルは多様化していった。エンジンを含み大幅な改造を認めたり、逆に近年はナンバーつき車両にほとんど改造を認めなかったりすることもある。
ともあれ、厳正なレギュレーションが設けられており、同じ条件で争うという点では、すべてのワンメイクレースに共通する。

また、改造を極力抑えて、という意味では、入門に適したレースと思われがちだが、必ずしもそうとは言い切れない。特にシビックレースは、歴代のシビックの戦闘力の高さから、初期にはプロドライバーの参加も多く、後にはスペシャリストたちの対決が話題にもなった。
ただし、多くのワンメイクレースはビギナーも対象としており、JAF(日本自動車連盟)が発給する国内A級ライセンスさえ所持していれば、誰でも参加できるのも特徴である。

同じように、使用できるタイヤもワンメイクレースごと千差万別。
一般的にはADVAN A050のような、溝の刻まれた競技用スポーツラジアルタイヤを使用するが、中にはシビックレースのように溝のないスリックタイヤを使用するレースもある。その一方で、ADVAN NEOVA AD08Rのようなスポーツラジアルを使用するレースもあり、その多くはナンバーつきレースであったりもする。近年は装着できるタイヤも単一メーカー・単一銘柄に絞って、ワンメイクとするレースも増えてきた。
さて、シビックレースがワンメイクレースの礎だと冒頭に記したが、実際'70年代にはワンメイクレースを設ける発想がなく、エンジン排気量や改造範囲によったレース区分があるだけだった。
したがって、さまざまな車両によって争われることが多かったが、こと排気量1300ccを上限とするレースでは、B110型・日産サニーの独占状態。エンジンチューンの許されたTSレースでこそ、SB1型・ホンダシビックやKP47型・トヨタスターレットがライバルとなっていたものの、エンジンノーマルのプロダクションカーレース、もしくはサルーンカーレースではサニーに太刀打ちできなかったからだ。

しかし、このサニーは'73年で生産を終了。当時はFIA(国際自動車連盟)で公認された車両でなければレースができず、あの手この手を尽くして延長されたが、いよいよそれもいよいよ……ということに。同じA12型エンジンを積みながら、後継のB210型サニーは車体の大型化により、レースには適さず。
だが、その状況は自動車メーカーにとって、新車を売るチャンスだったこともあり、サニー以外の車両によるNPやNS(ニュープロダクション、ニューサルーンの略称)と呼ばれるレースに積極的に車両を投入するようになる。


そこに一石を投じたのがホンダであり、シビックによるワンメイクレースというスタイルだった。

サルーンカーの規則を踏襲し、エンジンはノーマルで、許される改造は最小限。それでいながら、当時としては破格のシリーズ賞金を設けたこと、鈴鹿サーキットを舞台に当時トップカテゴリーだったF2(フォーミュラ2)と併催したことで、大きな反響を集めた。
参加者はサニーによるサルーンカーレースの卒業生が大半を占めたものの、プロドライバーまで呼び込み、ハイレベルな戦いを繰り広げるようになる。

'81年から2年間は鈴鹿サーキットだけが舞台だったが、'83年からは東日本、西日本シリーズが、そして'84年には鈴鹿レディースカップまで設けられる。いかに高い人気を集めたか、理解してもらえることだろう。
また、'83年には各シリーズの上位ランカーだけを集めて争われる「ジャパンカップ」も開催。これが後のチャレンジカップに引き継がれるまで、シビック使いたちの日本一決定戦となっていく。
'85年には3代目の通称“ワンダー・シビック”ことAT型が投じられる。そして、この世代になったころから、ヨコハマタイヤユーザーの快進撃が開始される。ユーザー初のシリーズチャンピオンに輝いたのは、'86年の東日本シリーズにおける日下部保雄選手だった。またこの年からは、東北シリーズも設けられ、より全国的な展開を見せていく。シビックのスポーティなイメージがさらに強まったのは、このワンダー・シビックからだろう。パワフルなDOHCエンジンを搭載したこは、ひとつの象徴的な事実だ。

そして、'88年からは4代目の“グランド・シビック”ことEF3型が投じられる。その年はまた、F1日本グランプリのサポートレースとして、シビックチャレンジカップが開催された年でもあり、シビックレースはいっそう認知度、人気を高めていく。
そういった流れの中で、全国転戦のインターカップが'91年にスタートし、この頃には数え切れないほど存在したワンメイクレースの中で、最も規模が大きくハイレベルなシリーズのひとつとして知られるようになった。

'92年からは“スポーツ・シビック”ことEG6型が、そして“ミラクル・シビック”ことEK4型が'96年から、そしてタイプRの名称が冠せられたEK9型も'98年から投入される。このあたりは各地のレースでも未だ現役だけに、なじみも深いのではないだろうか。
サニーの時代とは異なり、現在ではJAFの登録車両であればレースができ、生産中止されても、この登録は抹消されることはほぼない。サニーの公認切れがシビックをサーキットに呼び込んだのとは、皮肉なことに対照的な背景だといえるだろう。その後、2002年からホンダのワンメイクレースは'07年までインテグラに代を譲るも、FD2型としてシビックが復活。2013年までレースは続いていた。


ヨコハマタイヤのシェアが一気に増えたのは、インターカップに限定されるが、スリックタイヤが導入された'95年から。それまでは溝付きタイヤで競われていたが、複数のタイヤメーカーがしのぎを削りあう中で大きな転換点となった年である。その後、地方シリーズもスリックタイヤ化されると、ヨコハマタイヤを選ぶユーザーがさらに増加。

また、「よりイコールコンディションを」という意識の高まりによって東日本シリーズなどではヨコハマタイヤワンメイクで行われ、西日本シリーズなどでは他社タイヤのワンメイクとなった。'02年からインテグラへと車両を変えたインテグラレースでもその流れは継続され、インターシリーズでは異なるタイヤを使用するユーザーによって激しくシリーズが争われる一方、各地方のシリーズではタイヤワンメイクでレースが行われることとなった。'07年からはインターシリーズでもタイヤタイヤワンメイク化され、ヨコハマタイヤがコントロールタイヤを供給。その流れは復活したシビックレースでも継承されたのである。
[UPDATE : 14.Feb.2014]
           
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